第一章 ジェイムズ経験論の輪郭
    

第五節 哲学大系からみたジェイムズ哲学の位置
            -ジェイムズ経験論の誕生-


 これまでの論述からわれわれはウィリアム・ジェイムズの哲学が神のための哲学でもなく、自然のための哲学でもなく、まさに人間のための哲学であると察知しえよう。ジェイムズにとって人間のための哲学は次の態度を基調にしているのである。即ちそれは自然界にあっては独裁者の如き高慢さを宣言する法典であるが、人間界に対しては人間の善性的本性に依拠し、人間同士の葛藤を無意味ならしめようとする特異なヒューマニズムにみちあふれているという点である。
 それではかかる哲学にとって何が一番大切なのか。それはまず人間の精神ないしは身体の働いている機能を知ることである。次いでそれが一つの自然的事実であると同時に、人間的機能であるという故をもって天から授けられたかの如き尊厳性をもっていることの自覚である。そのためには二つの点が注意されなければならない。一つは個人的存在の重要性の観念であり、二つは個人と他の個人との調和の観念である。それらは観念としては対立しているようにみえるかもしれないが、現実には調和的関係が決して個人的存在に対するなんらかの制約になっているのではなく、むしろ個人的存在の重要性を確認する一つの場として考えられているのである。
 われわれは以上をもってジェイムズの中心的思想とみられる根本的経験論の導入としよう。後述されるように根本的経験論とは認識論的テーマを主にしている。にも拘わらずこの根本的経験論が人生哲学と深く結びついているのはジェイムズ独特の思考性を示す証左である。すでにのべた如くジェイムズにとって哲学とは人間の最も内的な性質の表現である。そしてそれはどのようなビジョンをもっているかによって様々なタイプの体系がつくられると考える。
 ではビジョンとは何か。「人間の全性格と全経験によって人間に強いられるところの、生のあらゆる衝動を感じ、生のあらゆる流れをみる様式」
(1)とジェイムズはいう。ジェイムズは自分の哲学と根本的に違うと考えられる哲学に対しても究極的には同様の見方をした。哲学は究極的には同じ精神の機能に基づいているのであり、ただビジョンが違うだけである。いいかえれば生をとらえる様式に差異があるだけである、と。それ故ジェイムズの根本的経験論とて人間の持つビジョンの一つにすぎないのである。とはいえジェイムズは様々なタイプのビジョンの批判を経て、最後に根本的経験論を採用しなければならない点を『多元的宇宙』の第一講で強調している。してみると、根本的経験論が他の哲学よりもすぐれた状態でもって区別されるところの基準があきらかにされねばならないだろう。
 われわれはその確証を以下のジェイムズによる様々なタイプの哲学の分類においてみるであろう。ジェイムズの分類を図式化すれば次の通りである。

      ┌ 唯 物 論
 哲学─┤          ┌ 一 神 論
      └ 唯 心 論─┤         ┌ 絶対的観念論
               └ 汎 神 論─┤
                         └ 根本的経験論

 ジェイムズにとってもっとも興味深く考えられているのは唯物論的哲学と唯心論的哲学の対立である。彼がまずはじめに哲学をこれら二つの哲学に二分したのは哲学における常識的且つ歴史的な二分法に従ったまでである。だが注意すべきなのはこの二分法の基調にあるジェイムズの態度である。即ちそれは決して形而上学的にみられていないという点である。
 ジェイムズにとっての唯物論が形而上学的原理としての「物質」を第一義に考える哲学でない如く、唯心論が超越的に存在する「精神」を賛美する哲学でないのは、先に説明したように、「物質」あるいは「精神」の存在論的なとらえ方、いいかえればそれらの抽象された本質の思弁的考察がジェイムズの哲学的態度にあわないからである。それではジェイムズはいかなる見地にたって哲学を区分するのか。それは自分を中心とした世界が自己の気質とマッチするかどうか、からである。あるいは逆に自己の気質が共感的sympatheticであるか、冷笑的cynicalであるかによって、それにみあった世界をうけているかどうか、からである。
 これによって唯物論と唯心論の対立が冷笑的気質と共感的気質の対立になるのである。われわれはジェイムズの唯物論と唯心論の区分の仕方が気質の種類に従っている点に驚く必要はないであろう。唯物論がよそよそしい態度の信仰であり、唯心論が親しみの感情の信頼であるという見事な割りきり方が独特のジェイムズ哲学をうみだしているのであり、この基準はまさに彼の哲学の根底的なものと対応しているのである。
 こういった二分法を採用した後、ジェイムズが唯物論を全く論議の対象外として、こともなげにきりすてている。今少しそれについて詳細に検討してみよう。ジェイムズによれば唯物論とは「事物の中にあるよそよそしさthe foreignがより本源的であり且つ持続的である」
(2)とする考え方である。この事物とは必ずしもあの形而上学的原理としての「物質」を直接的にさし示すものではないにしても、精神になんらかの形で外的存在として対応すると考えられている対象である以上、そこには精神に内在しないよそよそしさを覚えるのは当然である。
 かかる事物のよそよそしさを中心にすえるとなるとわれわれの精神はいかに対応しなければならないのか。われわれは現実の問題として自然の中に、あるいは宇宙の中に存在している。われわれの精神はこういった自然の種類をただあるがままに記録し、それを物理学の盲目的な法則を通して作用するものとして書きしるさねばならない。ジェイムズは「これが自然主義とよばれた方がよいところの今日の唯物論の様相である」
(3)と考える。
 それは前節で知った科学的態度と一脈通じる性質をもっている。科学的態度が事物を原子や分子に還元してわれわれの精神を寒からしめ、われわれの生の直接性から離れたところにおいやるために歓迎されないように、ジェイムズにとっては唯物論も又それが「いかにうまく事物を原始論的統一体にとけあわせても、あるいはいかにはっきりと未来の永遠性を予言しようとも、いつも一般的に認められるということができない」
(4)のである。なぜならば「唯物論はわれわれがもっとも大事にするところのほとんどあらゆる衝動の対象の実在性を否定する」(5)からである。(一)
 従ってジェイムズは「いかなる形における唯物論をも考えること」
(6)を避け、自らを唯心論者として位置づけようとする。その際われわれが注意すべきなのはジェイムズのこの選択があくまでもプラグマティックな観点からなされている点であろう。いいかえればこの選択のきめ手となったのは唯物論的生き方と唯心論的生き方の結果する差異であったのである。前者はよそよそしく、そのために絶えず用心深く且つ緊張する習慣をうみだすのに対し、後者は思いやりにみちているために信頼の習慣をうみだしている。ジェイムズが後者を選ぶのは「われわれはすべての共通の仲間socius」(7)であり、「われわれがその子供であるところの偉大な宇宙」(8)において、われわれが譲りあい、相和し、究極的な恐れをもたない、という実際的な理由からである。
 次に唯物論から区別されたところの唯心論とはいかなるものなのかを考察してみよう。ジェイムズの言葉によれば唯心論は内在性ないしは親近性intimacyを背景にする哲学である。しかし唯心論的なものの考え方は、ジェイムズによれば、唯物論的なそれと違って範囲の広い、内容のみちた複相性をもっている。
 この複相性を整理し、体系的に細分する基準となるのは、人間の精神にどれだけ内的でintimateであるか、である。そして内在性の度合いの少ないものが一神論となり、より内的なものは汎神論となっている。経験論者ジェイムズが哲学の分類において有神論的見地にたっていることは注意を要する。なぜにジェイムズが神の存在を無視しえず、それを哲学的考えの一部として重きを置くにいたったのか。ここにジェイムズ哲学解明の一つの手がかりがあるともいえよう。
 だが本節のテーマに限っていえば神の存在は人間のための哲学を築くためにジェイムズによって利用されているにすぎないのである。同様に神はその哲学の分野においても利用され、名前まで貸し与えているのである。ジェイムズにとってはそれはなんら不思議なことではない。なぜならば人間がどのような神を考えており、それをどのように信じて行動しているかは、宗教的問題というよりは、全くのところ、現実の人間の生き方の問題であるからである。しかもジェイムズは一神論が理論的に人間のための哲学ではなく神のための哲学を擁護するものであることを知っている。そのジェイムズが一神論を汎神論と同等の、従って一つの考えとして平然と比較しえたのは、彼が一神論を擁護しなかったからにすぎない。
 では一神論的見解とはジェイムズによっていかにうけとられていたのか。一神論的見解は「神と被造物とをお互いから区別された実体として描きながら、人間的実体を宇宙におけるもっとも深い実在性の外においたままにし」
(9)又「神は永遠の昔から完全であり、それ自身充足的である」(10)と考えたり、「神は自由な行為によって、又外的な実体として世界を一気につくり、そして今度は世界にとっても神それ自身にとっても外的な第三の実体として人間をつくる」(11)という考えをもっているのである。
 これが正統的、スコラ神学的な一神論的見解であり、これを比喩的ないい方ですれば、神が第一にきて、世界が第二にきて、人間が第三にくる、考え方であるといえよう。スコラ神学においてはかかる絶対的異質性の観念は比較の余地さえ許さぬ超絶性をもっているがジェイムズにおける一神論はそれに比べ、超絶性がやや失われたものとして理解されている。即ち神と人間とのなんらかの関係づけがなされている。ジェイムズは具体的に次のようにのべる。「人間は神にとってはアウトサイダーであり、単なる臣下であって、神の親しいパートナーではないので、その領域には外在的特徴が襲いかかっている。神はわれわれの心の心、われわれの理性の理性ではなく、むしろわれわれの長官なのである。そしていかに奇妙であっても神の命令に機械的に従うことがわれわれの唯一の道徳的義務なのである。」
(12)
 しかしながらスコラ神学的一神論であろうと、その他の型の一神論であろうと、ジェイムズにとっては本質的に変わらない。哲学的一神論としては、それがいかなる形をともなうにせよ、人間の精神にとってよそよそしく作用するという点において否定されるべく意味があるのである。この一神論における神の人間に対する関係は単に一方的であり、相互的でないところに成立条件がある。そして神と人間との二元論、神の無限性と人間の有限性の二元論がその関係の背後に横たわっている。
 後述されるようにジェイムズ自身は神の存在をも認めていた。だがジェイムズにとってその神とて人間が働きかけるなんらかの有限性をもっていなければ、神は存在しても、それはよそよそしいだけである。従って一神論における神にこの内的性が欠如しているというのはわれわれが神に働きかけてもなんら答えてくれないという意味である。一神論がジェイムズによって無視されているこの理由は唯物論の無視のそれと本質的に変わっていないだろう。われわれの精神から隔絶している物質の存在を中心にすえる唯物論にくらべれば一神論は内在的な方であるが、やはりそれはわれわれの精神から隔絶している神を中心にすえるために、二元論を形成している意味において同じであったのである。
 それではジェイムズが一神論よりもより内在的であるという理由で採用するところの汎神論とは何であるのか。究極的にいってそれはアキレスの 腱である二元論、即ち精神と外から精神に照射をあてそのためにわれわれを宿命論者にするところの実体の存在を認める二元論、を解消する哲学であるといえよう。具体的にはこの汎神論的領域のビジョンとは「神を外的な創造者としてよりも内に住む神的なものとしてとらえ、人生をその深い実在の部分としてとらえている」
(13)考えなのである。そこでは「われわれは本質上創造的原理と一つなのであり、神的なものといえどもわれわれの所有物の中でもっとも内在的なものであり、われわれの心の心である」(14)とされている。
 これらの考えが導きだされる直接的契機を与えたのはやはりスコラ神学に対する汎神論的異端者たちであろう。彼らは一神論における「二元論と内在性の欠如が常にキリスト教的思想への妨害物及びハンディキャップとして作用してきた」
(15)ことをみぬいていた。そこで宇宙の内在的な塊と理性としての神が一神論的な神、即ち外的な創造者としての神よりももっと価値のあるものとして想定されたのである。この神は「世界をより完全に統一するように思われたし、世界をそれほど有限的で機械的なものにしないように思われた」(16)のである。
 ところでジェイムズは内在的な種類の汎神論については二つの形式を考えていた。即ち一元論的汎神論と多元論的汎神論である。そして前者が絶対的観念論、後者が根本的経験論といわれるべき内容をもっている。確かに二元論を解消したという意味で、いいかえれば精神と対立するものを精神の中へくみいれ、内在化することによってよそよそしさをとりのぞいたという意味で汎神論のもつ歴史的意義は大きいといわれねばならない。なぜならば汎神論は近代哲学の弱点を強力に補い、且つ主流を形成するにいたらしめた一つの重量な役割をはたしたからである。しかしながらジェイムズにとっては絶対的観念論と根本的経験論が同じ根をもちつつ、形成において全く対立する内在化へのアプローチをとっているということが唯物論や一神論を無視するように簡単な区分ですませるわけにはいかなかった。ジェイムズの哲学的主張の大半はこの二つの汎神論的見解のいずれかにむけられており、絶対的観念論の否定と根本的経験論の擁立態度を一貫させている。ではなぜに絶対的観念論は否定されねばならないのか。
 絶対的観念論とは絶対者の存在を認める哲学であるばかりでなく絶対者の哲学でもある。一神論的神はただ単にわれわれの精神の外に存在する実体であったが、絶対者はわれわれの精神と同一でありながら、それ自身われわれの精神から離れて存在する実体であるかの如き性格をもっている。この端的な例は絶対的精神という一元論的に考えられている存在である。そこでは世界は「集合ではなく、すべてを内包する一つの大きな事実」
(17)としてうけとられる。しかもこの事実がないならば世界は無以外のなにものでもないと考えられている。
 同じ一元論でも唯物論である場合、この事実は物質の存在によってつつみこまれるように、観念論である場合には絶対的精神の存在によって包み込まれるのである。この絶対的精神の働きはきわめて観念的であり、丁度「われわれが夢の中で対象を夢みることによってその対象をつくるように、あるいは物語の中で人物を想像することによってその人物をつくるように」
(18)それは事実を思考することによってその事実をつくりだすのである。この絶対的精神がわれわれによそよそしさをもつと、それは絶対者の精神以外のなにものでもなくなるのである。いいかえれば絶対者と世界は同一の内容をもってくるのである。
 絶対者は絶対者の対象の知識であり、その対象は絶対者が知るところのものである。このように「世界とすべてを思考するもの(絶対者)はあますところなくお互いをにじませひたしている。それらはドイツ人であるならゲダンケとゲダハテスというであろうところのもの、即ち一方では主観的観念から考えられ、他方では客観的観点から考えられたところの、全く同一の資料に対する二つの名前にすぎない」
(19)のである。又別の風にも考えられるであろう。「絶対者はわれわれを思考することによってわれわれをつくりだす。そしてもしわれわれ自身が絶対者の信者になるに十分に啓発されるならば、われわれが哲学することは絶対者が自己を意識する一つの方法であるといわれてもよいだろう。これは完全なる汎神論的図式であり、同一哲学Identitätsphilosophieであり、神の創造における神の内在であり、この巧妙な統一からの至高の受胎である。」(20)
 ここにわれわれは絶対的観念論の現実の姿をみるであろう。絶対的観念論はわれわれの精神が観念論的に作用する時に生じる一つの考えである。にもかかわらずそこで絶対者が想定された以上、このもとの観点にたつことが絶対的に許されない状況が精神自身の内在的作用の中でつくられ、逆に絶対者がわれわれの精神の方へ向きをかえてくるのである。
 この事実の根拠はどこにあるのか。それはわれわれの精神の中にある「全体的に物事を見る」習慣であり、「全体者に学ぼうとする」救いを求める傾向である。ここでは統一化は理想的行為であり、統一体はわれわれのすべてを満たしてくれる十全的存在であるとされている。そして絶対者はまさにスコラ神学における神にも似たそれらの象徴的存在となってあらわれてくるのである。しかも絶対的観念論、即ち絶対者の哲学は単に絶対者の存在を導出するばかりではなく、他の一切の哲学をも拒否しうる力を自らの内にもっていて、その絶対的地位を固持しようとしている。
 一つはその存在のもつ論理的独断性である。それによれば絶対者以外はすべて無であるのだから、一度われわれが絶対者を信ずるようになるや否や、それは絶対者に代償なき寄進をしたと同様に、われわれの精神も又彼に吸収されてしまうのである。全体か無かのこの絶対的観念論の挑戦はわれわれの精神にある弱点的な習慣と傾向をたくみに利用し、全体に実在性を一度にそして瞬間的に与えるための恐るべき力になっている。二つめの力は一つめの力を補助的に拡大させる論理的技術である。そこでは絶対的観念論に直接的に反対する根本的経験論、いいかえれば多元論的汎神論の論理的欠陥をつくために帰謬法reductio ad absurdumが使われている。
 実は絶対的観念論の苦慮するところは全体か無かの選択において絶対的観念論が全体を認め、無を拒否する媒介的確証が積極的にはみだされえない点にある。なぜならばそれはせいぜい全体を認めるから認めるのだという意味しかもちえないからである。そこで対立する哲学の無意味性の証明の必要が生じてくるのである。絶対的観念論は次のように反論する。
 まず多元論者の考える諸事物とはある点では結合されているが他の点では独立的であるとしている。(なぜならばなんらかの結合形式が認められなかったならば多元論そのものが成立しないからである。)そこで多元論者はどうしても諸事物はすべてを内包する個的事実のメンバーではないといわざるをえない。ところが絶対的観念論はこの主張が馬鹿げていると考えるのである。というのは実際にごくわずかの独立さえ認めても、次第に多くの独立を認めねばならず、最後には絶対的カオス以外のなにものも残らず、あるいは宇宙の諸部分の間にはいかなる結合も不可能になるからである。
 他方二つの事物間にはじめてごくわずかの関係を認めると、そこでもすべての事物の絶対的統一が包合されているということがわかるまで、それを認める行為をやめられなくなる。絶対的観念論は多元論者のこのあいまい性をついていて、多元論者が自らを絶対的カオスか絶対的統一のいずれかに組しない限りはその存在基盤が崩壊していくことを示唆する。しかも絶対的観念論の狡猾さは多元論者が事物の絶対的統一に近よるという態度をさらさらもちえないばかりか、多元論者の味方と思われがちな絶対的カオスに身をあずけることすら、その多元論のもつ論理的構造から拒否することをみこしているところにある。
 さらにそれはあの全体か無かの問題のたて方と同様に、事物の絶対的カオスか絶対的統一かの二つのわけ方に単純化しつつ、一方では絶対的カオスが人間の内在的本性に適合しないという心理学的根拠に依拠させて、それをきりおとし、他方では絶対的統一のみが合理的に適った考え方であるとして残そうとするのである。
 その論理的根拠は何か。ジェイムズはここでロッチェによる「有限的事物の間の相互作用の事実からの一元論の証明」(21)を例にだす。それは以下の如くである。今仮にa、bという有限的事物が独立的に存在しているとする。するとaがbに作用しえるかどうかが問題になる。作用するとは影響を及ぼすことであるから、結局aの影響がいかにbに作用するかである。そしてaの影響がbに作用しcやその他に作用しないのはなぜかと考える。それはbがaの影響をうけいれる能力を持っていたからである。従ってbの性質がaのそれとなんらかの方法で前もって適合しているからである。するとaやbである有限的事物が相互作用の関係にあるのはそれらが一つの実在Mに依るからだと認めなくてはならなくなる。そしてaやb以外の他の有限的事物の場合にも同様にたった一つの実在Mが背後にあることが導きだされてくる。かくて事物の絶対的統一が完成する、というわけである。
 これはあきらかに言葉の上だけの論証である。ところが絶対的統一の存在の論証はこれ以外にはないのである。だがそれをもってわれわれは絶対的統一が現に存在するとは考えないだろう。即ちロッチェの証明は絶対的統一の論理的根拠ではなく論理的結果であるという全く別の、しかもただそれだけの意味しかなさぬ、形式的なものにすぎないのである。いいかえれば多元論者がその立場上やらなかった作業を一元論が剽窃したのにすぎず、徹底的に多元論をいためつけたわけでもないのである。
 それでは絶対的観念論が擁護する絶対者の存在とは幽霊のようなものではないのだろうか。だが必ずしもそうとはいわれない背景が存在の根拠を与えているのである。それはなにか。理性であり、広くは知性そのものの存在である。これら理性ないしは知性は一つの知的独断性を不可避的に有している。即ち理性や知性が作用するような世界は必ず合理的であり自己整合的であるという独断性である。この独断性は認識的段階から実践的段階に移行するときは一つの信念ともなって姿をかえる。
 かくて絶対的観念論はこういった理性や知性に依拠する限り、世界のカオス的状態は許されざるそれとして規定してしまうのである。そのためにそれは感覚所与とその結合を非整合的でありカオス状態以外のなにものでもないとなにはばからずに宣言することができ、そういった世界のカオスのかわりに概念的秩序をもってくることに真理をみいだそうとするのである。そのようにかわりに登場した概念とは主知主義的に、即ち互いに排除しあう不連続的なものとしてとりあつかわれる。
 それならば感覚-経験の流れの最初の罪なき連続性はどうなるのであろうか。一神論と違って理性や知性といえどもこの感覚-経験の事実を一方的に無視せず、なんとかそのもとの姿を復元するかあるいはその本質だけは否定しまいとするのが絶対的観念論あるいは広く汎神論の特徴なのである。しかし概念的秩序をもってくるや否や実際にはその連続性はこわされるのである。より高い概念的連続性なる存在をもってきても、それは論理的にも一つの矛盾とならざるをえず不可能である。
 他方理性や知性の信念はないがしろにされてはならず、世界はあくまでも整合的且つ合理的でなければならないとすれば、そうするための理性ないしは知性的要請としての絶対者がよばれてこなければならないのである。その絶対者は従ってdeus ex machinaとして存在する。なぜならば世界の合理性と整合性を可能ならしめ、且つわれわれの内在的現象の理解者としての役目をはたすためには、一切を包括しうる能力をもつ存在でなければならないからである。
 このように絶対的観念論はあらゆる手段をつかってそれ自身絶対的な正しさを認めさせようとする。方法的には絶対的観念論は一元論的立場にたっていてる。それは絶対的一元論となった時一つの権威を得る。この権威は事物の多元的存在の拒否において消極的に保たれ、絶対者という唯一的存在によって積極的に保持されうる。しかしながら絶対的観念論がわれわれの精神の内在性にどこまでも依拠する限り、それはジェイムズによっては批判されなかったが、絶対者の哲学として、絶対者が実体的なものとして要請され、その結果われわれの精神と対立する存在であるかの如くにみなされている限りにおいては、一神論的な神とは寸分違わぬようになり、そのためにジェイムズによって「われわれが絶対者の意識の永遠の分野の構成部分であるという考えには困難性がある」(22)として拒否されるのである。
 その理由は以下にあるだろう。第一にわれわれは絶対者に吸収されてしまう如き精神の持ち主でなく、われわれの精神は生命をもつ一カケラの、それでいて決して無視されえぬ自発性をもつ主体的存在であるからである。この哲学は主知主義的方法を採用している。しかしそれは宇宙や世界の実在性を象徴としてとりあつかう独断性をもっている。たとえそれによって知的満足がえられると仮定されても、それはわれわれの精神とは異質の満足として観念的に存在する空虚なものにすぎない。
 だがこれらの理由も又きわめて知的に非情すぎている。ジェイムズの絶対者に対する異論はむしろ絶対者の非人間的特性にむけられている。いいかえれば絶対者は人間と同じ自然的制約になく、又人間と同じ感情をもたない、という点にむけられているのである。確かにわれわれは汎神論的にみた場合絶対者とわれわれは一体となっていることを前提にしていた。だが単に一体となっていると口では言いったところでいつの間にか二つのとり方をしているわれわれに自ら気づいたとき、絶対者が完全性に、われわれが不完全性に集約されて両者は様々な実際的な違いをともなってくる。
 その具体的例をジェイムズは次のようにのべる。「絶対者が私をとりあげる時は私は完全な知識を持つ絶対者の領域の中に他のすべてのものとともにあらわれる。私が私自身をとりあげる時は私は相対的に無知な私の領域の中に他の大抵の事物とは無関係のままあらわれる。そして絶対者の知識と私の無知から実際的な違いが結果する。無知は私に対し錯誤、好奇心、不運、苦痛をうみだす。私はこれらの諸結果に苦しむ。絶対者は勿論これらの事物について知っている。というのは絶対者は私と私の苦しみを知っているからである。しかし絶対者は自分では苦しまない。絶対者は無知である筈がない。というのはすべての問題の知識は同時にその答えの知識をともなっているからである。絶対者は忍耐強い筈がない。というのは絶対者はすべてをすぐにその場でもつので何も待つ必要がないからである。絶対者は驚く筈がなく罪を犯す筈がない。継続と結びつけられる属性は絶対者には適用できない。というのは絶対者は一時的に且つ完全にそれがあるところのものであり、『ほんの一瞬の統一性』をもっているからである。そして継続は絶対者のものではなく絶対者の中にあるのである。そういうのはわれわれは絶対者が『無時間的』であると話されているからである。」
(23)
 かかる絶対者はなるほど人間とは違って完全であるかもしれない。しかしその完全な絶対者に媚びる哲学が人間のための哲学ではありえないのは当然である。むしろわれわれが積極的に人間のための哲学をうちたてようとするなら、人間の不完全性を直視しなければならない。人間の不完全性とは何か。それは言葉上は絶対者の完全性に比していわれている名前にすぎないのであって、実は人間が様々な形で生存するしかたそのものをさしているのである。それ故当然価値的に絶対者に劣る存在といわれるべきではないであろう。その見地からすればわれわれは「絶対者をあたかもよそ者であるかのように感知しなければならない」
(24)のである。同時にこの処置は宇宙や世界の実在性を人間の精神の徹底して内在的な働きのなかにみている。絶対者のための哲学は本質的に実在性とは無関係であり、人間のための哲学が実在性を獲得する唯一の手段となりうるのである。
 かくてわれわれはジェイムズの哲学の三回の二分法によって彼自身の哲学である根本的経験論が妥当性ある哲学とされる過程を駆足でみてきた。最初唯物論が否定され、次いで一神論が、そして最後に絶対的観念論が否定されるというこの帰謬的方法はジェイムズ独特の主観性によるものである。かかる分類法は諸哲学と人間の精神との関わりの程度を重視する限りにおいてはじめて成立するものである。
 ジェイムズは体系としての哲学をあまり重視しなかった。なぜならばそれ自身すでに完結されていて、何もそれについて期待できないからである。従ってジェイムズの三回の二分法は彼の哲学である根本的経験論を導出するためのやむをえざる手段であった。しかしながらジェイムズが少なくとも哲学の分類の中に自らの哲学を位置づける以上、彼の根本的経験論も又体系的に完成されていなければならないとの指摘を甘受しなければならないであろう。これはジェイムズの哲学的思考の限界をも示している。それ故ジェイムズも晩年において自己を哲学者であるとあまりにも自覚していたが故に、未完成の『哲学入門』(『哲学の諸問題』の意)を執筆し、有名な次のようなメモを残した。「私はそれを『哲学入門a beginning of an introduction to philosophy』とよぼう。私は今はさながら片側にだけかけられたア-チのようである私の体系をそれによって完成することを望んでいた、といいたいのである。」
(25)
 とはいえ本編では根本的経験論が究極的に人間のための哲学であり、ジェイムズが様々の哲学批判をした末に浮き彫りにした哲学である点まであきらかにされれば十分であろう。根本的経験論は唯心論であり汎神論であり多元論であるところの経験論である。それは唯物論に対しては生存の根本を認めさせ、一神論に対してはドグマに盲目的に追随する人間を目覚めさせ、絶対的観念論に対しては人間の精神の主知主義的独断を阻止せしめ、人間の精神の内面にあるありのままの生存への意欲を覚えさせる。それは文字通り人間のための哲学への道を形成する。ジェイムズの哲学は文字通り人間の精神の内側からみられた透視画である。人間の精神と姻戚関係を持つ対象がその透視画の中で万華鏡の如く様々な色どりをそえて躍動する。それが実在的といわれる唯一の姿であり、それ以外はすべて冷ややかな空虚さと知的凍結にとりかこまれた死の世界である。重要なのは人間の精神の働きを決して無視してはならないということである。世界や宇宙は対象的にあるのではなく、それとともにあるのである。
 この見方は同時にわれわれの人生観と強力に一体化ならしめている。世界観と人生観はジェイムズにとっては同じ考えの二つの見方にすぎないのである。世界観即人生観であり、実体化される世界は主体化される世界であり、ひいては客体も主体も一つになった、どろどろにさかまく一つの流動的事実があるばかりである。このことは次章以下においてますます鮮明にされていくであろう。
 もっともジェイムズの哲学は歴史的に特異な存在でないのは前節でもあきらかである。哲学を合理論か経験論かにわける伝統的な分類に従えばジェイムズの哲学はその名前自体がすでにしめしている如く経験論であり、それ故に経験論のもつ基本的な点は他の経験論のそれと異なっていないのである。とはいえ今のわれわれは彼の哲学の中心が根本的経験論であると告げられているだけで、その具体的内容については少しも知らない。その意味でわれわれは根本的経験論の輪郭を帰謬的方法によってかすかにつかんだのにすぎない。従ってわれわれはこの伝統的分類に対してもジェイムズの根本的経験論はどう関係しているのかについて、あきらかにしなければならないだろう。しかしそれは本節の小さな目的をこえる大きな課題である。
 以上でもってわれわれはジェイムズ論の総論的論述を終えねばならない。ウィリアム・ジェイムズは巷間でいわれているように哲学者といわれるにはあまりにも劇的な存在である。それは何も波瀾万丈の人生体験をしたという意味ではない。むしろそれならば逆にジェイムズの活動的な後半生は大学の教授として所謂アカデミックな世界の中ですごされていたのであり、土と油で汚れて働く人たちのめまぐるしい生活とくらべれば、一つの落ち着きさえ感じられるであろう。
 しかしながらジェイムズの精神がどれだけ燃えたぎり、激情にも似た信念に導かれていたかをいくら承認しても承認しすぎることはないだろう。ジェイムズが何を考えていたかを判断するのは彼の才覚ある文章からでさえ容易ではない。確かにジェイムズの表現は誰もが認めるすばらしさでみちみちている。哲学者にあるまじきジェイムズの文体は彼の精神にある燃えたぎりをいかに正しく表現しようかと苦心している証左であろう。仮令そうであったとしても結局ジェイムズは自分の思いを満足する形で言語化しえなかったのではないか、と思われる。いいかえればここでわれわれはジェイムズの思いが彼の言語以上の厚みをもっていることを認めなければならないのである。だがそれを認めたとしてもわれわれがジェイムズを論じる際にはこの才覚ある文章を信じる他はない。
 今までの論述でもあきらかなように、そしてこれからの論述においても論者はその論述のテクニックとしてジェイムズの文章から直接の引用を数多く使い、又ジェイムズの心の中に入ってジェイムズを論じようと思う。それは以下の理由による。即ちジェイムズの文章はなるほどジェイムズにとっては次善の表現であるかもしれないが、われわれにとってはそこから趣旨だけとって勝手に解釈しなおすのはジェイムズの考えにある真実味なものからますます離れたものにしてしまうだけである、と考えられるからである。
 

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